集合意識

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今日の別記事リンクまとめでもちょっと触れた集合意識の話。

FBである方が書いてた「国民の集合意識がその国の現実を作る」に反応して、ちょっとやり取りをしてたんだけど、おいらの目から見る最近の世間は、その集合意識がひどくネガティブなものに寄っていて、それがわりと恐ろしいな、と常々感じてる。

いきなり脱線するけど、丁度この投稿を見る少し前に、アフリカの友人と、アフリカ内外の問題、主に各国独立を果たしてもなお続く、外国からの経済搾取の話をしていたことがあった。

友人は、コンゴではない、コンゴに近いアフリカ東部の人。国が近い事もあって、おいらの薄い知識の範疇では、主にコンゴのコルタンその他資源の問題なら多少は知ってるけど、友人が話す母国の経済搾取も全く同様の天然資源の問題。

その時のやりとりでは、その問題に関して、諸外国の一般人にその現状を訴えるのも必要なことだけど、それと並行して、自国の一般人の意識・知識・関心も、もっと変えてかないといけないよね、みたいな、そんな話をしてた。

「あの国は泥棒だ」と外の何かを罵り続けてるだけでは、恐らく搾取システムは変えられないから。外国と、それに加担してる国内政治家との間で合意が出来上がった上で成り立ってしまってるのだから。その国の人々が変えられ得るのは、まずは国の内側で、国の内側を変えていくには、そういう意識を持つ人を増やしていかないとね、みたいな。

その日は、そこから些末な余計なトピックに逸れすぎて話半分に終わり、でももうちょっと議論したい所だねぇ、みたいな感じなので、そのうちまたこの話題は続くかも。出くわすと挨拶して、軽い莫迦話が出来るアフリカ出身の友人は多少は増えたけど、こういう話も出来る人はなかなかいないので、ちょっとうれしい。

昨日あたりにざっくり言及した気のする、南アで起きてるらしき、同じアフリカ大陸からの移民の排斥暴力も、集団で外のグループへ怒りを向けてしまうからなんだろう。でも、仮に移民を全員殺戮しきったら、それで彼らの困窮は軽減するんだろうか。その場の負の感情をスケープゴートに向かってぶちまければ何か変わるんだろうか。それが問題の根源だろうか。

なあんて、海外の問題を外国にいる外国人があれこれ言ったってしょうがないんだよね。はい、脱線終わり。

さて、じゃあ、ニポン。母語なんだから勿論、海外の事例よりは各所で起きてるいろいろな詳細事例を知ってはいるものの、そして、双方ともその国固有の文化背景や事情もあるので、安直に海外との比較は出来ないものの、………うーん? 基本的な構図は同じじゃね? そう、そう思うんだよね。

ニポンの場合、怒りの矛先も多様で複雑化してて、それもやっかいに見えるけど、矛先がどこであれ、怒りベースなのだけは共通してる感じが強い。そして、怒りの前提に正義が持ち出されるケースも多い。これもまた相当な曲者。

そして、何よりも、その怒りがひどくインフレを起こしている感じなのが更にこわい。
政治面のニュースを見て、
経済面のニュースを見て、
国際面のニュースを見て、
社会面のニュースを見て、
芸能面のニュースを見て、
SNSの失言を見て、
何かがあると、誰もがカジュアルに正義の怒り表明をする。

こちらがこちらの正義の怒りの文脈で罵倒する、あちらもあちらの正義の怒りの文脈で罵倒し返す。だってそれぞれに、それこそが「正義」だから、正義は正当なものだから、正当な怒りだから、譲れはしない。お互いにそう思ってる限り、平行線のまま硬直しあうばかり。

弱者がとうとう声を上げる、みたいな、窮鼠猫を噛む、みたいな、そういう時に極度な怒りや恐怖を原動力にしたアクションが生じることはあると思う。何人たりとも常に怒ってはならない、なんて思わない。現れた怒りを何が何でも飲み下して無きものにするべきだ、とも思ってない。怒りという感情そのものを否定はしてない。

おいらだって日々、些細なコトで瞬間的にキーッとなることは多いし、時には、下に書いたようなあれこれを経た上でなお、敢えて「怒り」の形のまま何かを表明することだってある。まぁ、滅多にないけどね(多分)。

脊髄反射はしょうがない。しょうがないけど、大抵の場面では、それを自分の中から外に表出させるまでには、数秒であれ、数分であれ、数時間であれ、数日であれ、発生した怒りを自分の中で吟味したり消化したりした上で、違った形に変換して表出した方がいいと思ってる。

でも、(主に)ネット界隈で表明される大半の怒りの表明は、未消化の生まれたそのまんまのトゲトゲしたものが多い気がしてる。それが必要ではない場面でも。なんというか、生まれた怒りを新鮮なまま直送で投げ放しているような。そして、「それが当たり前」という新基準になりつつあるようにも思えるのもこわい。

ようやく話が最初に戻ってきた。

怒りは新鮮であればあるほど、正常な判断のバランスも狂わせる。しかも、上で書いた通り、最近は初期設定で「正義」という正当化マジカルキーワードが付いてる事が多いから、本旨では正しいけど手法は見直しの余地がある、みたいなものでも、一瞬も立ち止まる事さえせずに、そのまま放出されてしまう事が多い。

そんな危うい怒りと、それへの同調が、今の国民の「集団意識」になりかかってるように見える。うーん、「国民の」は主語デカすぎるのかな。いやいやそもそも主語っていうか修飾語?なんでもいいやw 少なくともオフラインよりオンラインが実体みたいなおいらの観測範囲プラスアルファでは、程度かもしれないけど。

で、そう、同調。加えて、旧来からあるニポン人的な同調性。押し付けのないはずの場面でこそ、無言の同調意識が勝手に芽生えがちな、これはニポン人気質と言っていいのかわからないけど、これも実は、以前より強まってる感じはする。

「同調圧力」なるキーワードもだいぶ前からよく見かけるけど、言語化された、ということは、反面、それへの抵抗感を持つ人も増えてるのかもしれない。

とはいえ、まだまだこの同調性はニポンで生まれ育った人たちには染み付いてる。無意識レベルで同調しようとしたり、同調できない場合に疎外感や罪悪感を持ったりすらする人は多いんじゃないかな。

本来不要な罪悪感を自ら感じるまでもなく、少なくともおいらは、おいらが言われた訳ではないけど、「これに怒りを表して行動をしない奴はバカだ」という、同調圧力に輪をかけてネガティブな発言を見かけたこともある。

そういう発言は、たまたまおいらが見た時にだけ起こってるわけじゃないと思う。だって、その発言をしている人からしてみれば、正義ドリブンだから。そうあるべき、なんだから。だったら、それに乗らない事自体を、イコール悪にしてしまえるでしょ。

うーん、怖いなー、負の集合意識 feat. 同調圧力。

おいらは個人的な、もしくは、社会的な理不尽を感じた時は、腹の中で怒りを感じたとしても、まずはしっかり考えていきたいな。で、誰かの怒りを伴う表明に触れた時も、安直に流されて同調しないようにしたい。内容的にはどれだけ同意できるものだったとしても。

大抵の場面では、怒りを伴っても伴わなくても、何かの問題について語ることは出来るはず。そして、他者(それが特定個人でも、不特定多数でも)にその問題を共有したい時はそれこそ、怒りの感情を伴って押し付けてはいけないと思う。ちゃんと受け止めてほしければ尚更。

自分が関心を持ってる問題も、多くの人にはさほど関心の対象でもない事の方が、恐らくは多い。そんな人たちにも、瞬間的に注目してほしいのではなく、本当の意味で関心を持ってもらいたいなら、ポジティブな引っかかりと共に相手に伝えられるようにしていきたい。

なんだ、思ったより長くなったw
それこそ誰に向かって書いてるつもりでもないのに。
とはいえ、わりと文章トレーニングな意識で書いてみた。本当に必要が生じた時のために。
(でも、後で見返したら支離滅裂でゲンナリしそう)