間
「一呼吸置いている」のほうはdescriptive interruptionというんだそうです。この場合は日本語でも中間に「と彼は言った」を置くべきとされているけど、「……」とかを入れて、間を表現するんでもいいんじゃないだろうか
(引用出典:宮脇孝雄『翻訳地獄へようこそ』p.167) pic.twitter.com/WyT6RrJOhH— 翻訳するポット⚗ (@potpotkettle) May 18, 2019
村上春樹は日本語でもこれを素でやるから翻訳文体って言われたり英訳しても雰囲気変わらなかったりするわけですね。https://t.co/NU1bhWqixA
— なしゃこ@365連休 (@nashacom) May 19, 2019
間があるならその位置を変えてはいけないんですが、割りこんで書いてはあるけど間ではないと解釈できる場合は(これがなかなか確信しにくいんですが)、口調など、別の手だてで話者を分かるようにしたほうがよいとも。日本語への翻訳だとせりふがぶつぶつ切られるのは、やっぱり読みにくいので。
— 翻訳するポット⚗ (@potpotkettle) May 18, 2019
?は英文(小説の)和訳的な場面での会話文についての「ダイヤログタグ」と「間」の話なので全く関係ないけど、「間」か。
「間」については、読むシーンじゃなくて自分が書くシーンで、いつまで経ってもボンヤリとした疑問を抱えたまま考えが定まらない。こういうどうでもよいブログでも、更にどうでもよいTwitterでも、わりと「間」の表現に悩むのだ。
いや待て、むしろビジネスシーンでは、「間」に対する疑問の湧く余地すらなくやり取りは進行する。業務は業務で、そこで表現を「間」に頼る必要がないから、か。必要がないのか、頼ってはいけないのか、その双方か。
ビジネスシーンでは、可能な限り排除される「間」だけど、個人的文章でこそ、わりと多用したがりがちである、ってことかな。多用か否かはさておき、「間」の表現をしたがることへの是非自体すら気になる。「間」の表現方法についても気になる。そして無意識にある、間の表現をしたがる心理そのものも気になる。
たまに、
長いフレーズでも
こういう
改行を
したがる
人が
いる
もはや文節区切り改行、みたいな。それとは別に、
こんな形で、 まとまった文章を 文節区切り状態で、 読点とは かんけいなく 空白で区切りたがる 人も いる
この2つはわりと嫌い。嫌いだけどよくあるよね。よくあるし、自分では絶対やらないけど、気持ちはなんとなくわかる気がする。
デジタル機器上での文章作成技術は、どうしたってリテラシとは不可分なわけだけど、前者は、おそらく大きめスクリーンのあるパソコン、ではなく、昔ならガラケー、今ならスマホ、で文章作成するパターンかなぁ、とも思ったり。
いずれにしても、明示的に間を入れて、文章の読ませ方をコントロールしたいのかな、なんて思ったりする。
「間」ドリブンではないけど、なまじ手動で一行文字数のコントロールを試みて、自分の閲覧環境の中でだけで改行を入れちゃったが故に、環境によっては2行に1回中折れで更に読みづらい文章になる、みたいなケースもある。これも文章の見せ方コントロールの一種、かな。
間の表現。なしで書いた方がいいのかなぁ。間っていうか、文末を三点リーダーにしてしまうパターンにはよく陥ってるかも。特についっただと。そもそもそうしてしまう自分の心理はなんなんだろう。自身のなさ?語気の和らげ?
文章から自分の精神についてまで考え込むと、ムカデの脚状態だな。読みやすい文章、書きたいんだけどね。文章、むずかしいなぁ。(結論もオチもなし)
7年前
FBが過去の掘り起こしで、おいらの約7年も前の投稿を出してきた。写真投稿じゃないものの掘り起こしってわりと珍しいな。
いい事言ってる感じだけど、写真がおざなりなのはさておき、メンタリティはあんまり成長しとらんなぁ。
がんばろ。
(今日はなんだか、もろもろ省みモードだな)