「音楽に国境はない」についてのジレンマとぐるぐる回り

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音楽に国境はない

そういう言葉を SNS 上で見てちょっと思った。
音楽には国境がない。
よく聞くフレーズだ。
実際、日本では、いや、今や世界的に、どこにいても大抵の曲は容易に聴くことができる。

食事もそう。
国境を越えて色々なものを楽しめる。
こと、日本の都市部にいると、世界でも無類のレベルな程に各国料理が楽しめる、と聞く。

とはいえ、その実、どこの料理も「日本人向け」な味への最適化が行われているケースは多いわけで、残念だけど、それは日本で商売としてやっている以上、当たり前のことなのであろう。ボーダーレスエキゾチシズムである。

音楽もそう。
国境を感じない気持ちで楽しむ音楽って、楽しみの対象の主要エッセンスはどこなんだろう。表面的な違い、エキゾチシズムを楽しむ、みたいな。それはなんというか、大抵はその「差分」を楽しむことなのだろうか。

それはそれで悪いとも思わないし、そういう形を取ってでも認知が進んでいくのはよいことだとも思う。ただ、私の場合は、とても似て、とても非なるものを求めてるんだろうなぁ、と、よく思わされるし、それが故に「ワールドミュージック好き」ではありません、と予防線を張ってしまうことも多い。

以前は私自身も「音楽はボーダーレス!そういうの最高!」って思ってたようにも思うし、そんな感覚の中で色々な音楽や文化に行き当たることが出来たと思ってる。けど、なんだろうな、今は国境があることを前提にして触れていきたい、というか、いくしかないのでは、と思うようになった。

ちなみに、便宜上、国境、国境、と雑に書いているが、文化圏というのは「国」をまたいで存在していたり、「国」の中に複数の異なる文化圏が存在する。
四方を海に囲まれた日本で暮らしていると忘れがちだが、実際は「ここからここまで」的な明確な区切り線のような境界はどこにもなくて、ただただ無数のグラデーションの連続が存在するだけなんだけど。

話を戻す。
どうも私は、「これ」と思った特定エリアのものを偏愛して追うことしか出来ないようである。そして対象を、音楽→言語→文化・社会みたいな形で、分野を徐々に広げつつ、執拗に掘り始めるのである。

その土地の文化みたいな、自分と異なる背景を背負った場所で生まれる音楽を極力、その背負ったものに包含される、けれども特別な明文化も可視化もされずに共有されている文脈込みの状態で私は観たい・聴きたい・知りたい、と、思うようになった。

その結果、極端な例を挙げると、私のハマっている地域にはイスラーム圏も含まれるが、現地に行ってもなお、いや、現地に行けば行くほどに、外国人女子である私が、その演奏を、自分の素の属性の状態で「その場」で体感する機会すらなかなか得られないことを思い知らされる。

そういった中で、否が応でも国境や文化の差異を感じざるを得ない場面に行き当たるわけだ。

それでも尚、そういった障壁や、こちらの価値観とは相反する部分も認めた状態で、理解した状態で、それらすべてを含めた状態で、観たい聴きたいという気持ちが強い。

そんな気持ちは、持てば逆にジレンマを生むだけでしかないのだけど、どれだけ自分に不都合なものであっても、その文化も込みでその土地で生まれて、放たれて、愛されている音楽を、極力ありのままで聴きたいのである。

それを国境をなきものにして、つまりは、異国向けに整形された状態で聴くことができるのか。聴きたいのか。そういった形で抽出され得たエッセンスだけ聴いたものから、その音楽の背景のどこまでが得られるのか。そこら辺がわからない。

わからないと言うか、ものによってはまったく「不能」であり、そもそもそんなニーズは考慮外である、と、答えは解ってる。そして、禅問答みたいなことを言ってしまえば、「真の何かを得る/理解する」なんていう事自体が幻想でしかないので、この思考自体、元も子もないのではある。

それでも、それぞれの土地に根付いた文化背景・社会・風土を知れるだけ知った中で、その音楽に─その音楽の本来ある場に─触れたい、観たい、聴きたい、感じたい。そんなところが私の今のスタンス a.k.a. ないものねだりである。

そのために、不充分ながらに知識や理解を増やせば増やすほど、逆に、その文化に対する無知とギャップを痛感することとなる。知恵の実はそれまで見えてなかった壁を見せつけてくるのだ。

つまりはむしろ、国境の存在を再認識するようになる。そしてより一層、ジレンマというかフラストレーションも溜まる。だけど、それでも、それも込みで、その上で、その音楽はその土地で、その社会で生まれ、育まれているので、やっぱり知っていきたい。

あれっ、同じこと何回も言ってる?そんな気がしてきた。自分の望み自体が到達点のないぐるぐる回りだからね。

さておき、そうやって、もうひとこえ裏側、表皮のもう少し内側の真皮、もしくは、心的な部分のその音楽の成り立ちみたいな部分をも知りたいとも思うし、常々言ってるように、生み出された音楽とその奏者だけではなくて、それを聴くネイティブ聴衆(現地の聴衆)たちの在りように対しても関心を持っている…というか、そこに大きな魅力を感じてる。

聴く人たち「と」楽しむんじゃなくて、聴く人たち「の」様相、反応、空気、熱、そういったものも込みで私は感じたい、という気持ちがとても強い。
(これについては長くなるので、そのうち別途書くつもりでいる。)

残念ながら、ここまでくるともう、観れば観るほど、ローカルの人たちがあたりまえに観る(おかしなありがたみや構えもなく雑に楽しむ)ような観方はできないのかもしれない、というのを思い知らされるばかりだ。けれども、それでよい。いいも悪いもなく、それでよい、と納得するしか選択肢はないのだけど、そこは納得して割り切れるようになった。

外野として、その音楽にまつわる世界観を、自分にとって可能な限り感じ取っていかれれば、っていう感じ。
どうしたってネイティブ聴衆と同じ目線にはなり得ないかわりに、このジレンマを含んだ目線こそが、私独自の視点に他ならないのだ、と思う。

何が言いたいのかちょっとよくわからないけどそんな感じ。

この記事、何年も前にドラフトを書き散らかして放置してた。
久しぶりに有象無象のファイルの中から目に止まり、自分の思考?思想?の変化のなさに笑いながら加筆編集した。
似たようなのがいくつか見つかったので、そちらも追々公開する予定でいる。

まだ全然言いたいことがすっきりとうまく言語化しきれてない気がするので、今後も修正して記事のアップデートはどんどんしていくかもしれない。

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