受動が生み出す偶然の出会いと能動による取捨選択

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201402220214

特に書きたいコトもなかったので書きかけ蔵出しテキストを膨らませてみる。

テレビとかラジオをダラダラとつける習慣がなくなってしまった。そもそも結婚以来、テレビ自体が家にない生活だ。

ラジオはそれより遙か以前、もういつからか記憶すらしていないほど昔から手元にはない。

以前はテレビもあった、帰宅すれば観たい番組の有無は関係なく、即座にスイッチを入れ、観ていようがいなかろうが、眠りにつくまで延々なにがしかの映像や音を流し続けていた。

勤めていた会社によっては、BGM代わりにFM局を流しっぱなしだったり、AMラジオを流しっぱなしだったり、そんな環境もあった。

要は、恒常的に受動的なコンテンツに晒されていたのだ。

今もコンテンツ漬けなコトに変わりはないのだが、ネットの時代になって極端に変化したのは能動だ。ネットの風潮では、どちらかというと能動が全て、みたいな傾向にある気がする。

どっちがいいとか悪いとかではなく、事実そうである。

特に 311 以降はそれぞれが思い思いに「騙されることのないように、自ら正しい情報を選び取る」コトを美徳として美学として処世術とする傾向は、更に強まったように思う。

が、残念ながら、この「選択問題」はいつまで経っても答え合わせが始まらないため、思い思いに信じたものを信じ続け、正しいのか間違ってるのか疑心暗鬼になり続けるしかないのだ。

どっちがいいとか悪いとかではなく、と書いたが、実際どうなんだろう。

最近時折、選択を放棄して、受動的に漫然とコンテンツを消費していた時にはあった偶然の出会いが懐かしく感じるコトがある。

これまでを振り返ってみると、観たかったワケでもない番組を観てる中でないと出会うことがなかったモノって言うのも、結構あったんじゃないかな。そうでもないかな。音楽とかはそういう出会いが意外と多そうな気がする。

そもそも観たかったワケでもない番組を観る余裕があったのが今思うと不思議で溜まらないワケだけど。どっちがいいとか悪いとかではなく。

ワタシ自身が長い間、能動至上主義みたいになっており、玉石混交であるコトを前提に、自ら選び取った情報の海にぷかりぷかりと漂っているコトに心地よさを感じてきたフシがある。

しかし、その選択自体、果たして真の能動なのだろうか。選択肢は意外に有限で、限りのある中から無理矢理選ばされてるだけのような錯覚にも時折陥るのだ。錯覚か?

そう、やはりここにも回答欄はないので、錯覚かどうかすらいつまで経っても定かではない。或いは、アタマとココロがもうちょっと強かったら、自ずと正解は見えてくるものなのかも知れないけれど。

ただ、自分で取捨選択をするコトによって、自分が接近遭遇する可能性の幅は極端に狭くなってるだろう。完璧にそうはしきれないとはいえ、基本は観たいものしか観なくてよい世界が着々と構築されているワケだ。どっちがいいとか悪いとかではなく。

……本当にいいとか悪いとかではないのか? あぁ、ワタシはいま、何が言いたくて何がしたいのだ? まさしくアレに陥ってる。自分の全ての足の運びを意識し始めたムカデ状態だ。何も考えなければ難なく歩けていたものが、意識してしまうと途端に足がもつれてしまう。

おいらはただ、能動・受動、どちらに振れてもよくないね、程よくね、が言いたかっただけなのに、ちょっと考え始めるのと同時に、どちらも選べないくらい双方に否定的になってしまう。ひどい性分だ。

もう、今日はこのくらいで思考停止しよう。

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